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牧口が時代性からどの程度自由だったか、あるいは不自由だったかは検討が必要。

公による私への圧力が1つのテーマであるわけだな。牧口の価値論は全体のことも考えないと個の利益も失うよという主張が含まれるが、戦前の教育者である牧口がどのような意図で論じていたのか。公私の概念対立を止揚しようとしたのか、デモクラシー的に広まってきた私の自由を制限しようとしたのか。

自由都市堺では自由な政治活動ができたのだろうか否か。

日本では例えば室町末期から戦国あたりがそういう雰囲気があった時代になるんだろうか。江戸時代以降は確実に公が私を圧迫する社会だよね。

実際古代ギリシャがそんなにユートピアだったのかわからんけども。

かつてギリシャでは、公の場こそ、私が何であるかを語り主張する場であったが、現代ではそれははしたないこととされ、私的領域でのみ私について語ることが許される、と。

すなわち、おまえが何者であるかには興味がない、お前が何を成したかでものを語れ、という近代の圧力こそが人間を阻害し、苦しめている、ということね。なるほど。

この節、それの一体何が悪いと言われて反論できるのだろうか。価値判断が含まれる主張であるかないか。

「<工作人>と<労働する動物>は、活動と言論というのは、怠惰に過ぎず、怠惰なお節介さ無駄なお喋りに過ぎないとして、これを非難する傾向があり、一般に、公的な活動力を一層高いと思われる目的にどれほど役に立つかという観点から判断するだろう」人間の条件 p.333

「権力が実現されるのは、ただ言葉と行為とが互いに分離せず、言葉が空虚でなく、行為が野獣的でなく、言葉が意図を隠すためでなく、リアリティを暴露するために用いられ、行為が関係を侵し破壊するのでなく、関係を樹立し新しいリアリティを創造するために用いられる場合だけである」
アレント『人間の条件』

もし死の直前に、自分の生を思い起こすとしたらああいう感じなんだろう。人生の終わりには何もないが、何もない終わりを受け入れることが生へのメランコリーを強く喚起するのだろう。

一読者としては、悲しすぎて心にダメージを負うんだけども。

ゴールに何もないことが、道のりの豊潤さを教えてくれるというか。であればこそ、ゴールには何もなかったのではない。何もなかったけど、何かが完成した。

この作品は、余韻を残すような(アニメの)終わり方ではダメで、原作のようにストレートに終末を突きつけて初めて完成するのだな。あの終わりが、二人の道のりの価値の輝きを逆照射するようになっている。

少女終末旅行、アニメだけ見て「ほーん、これ好きだな」って感じで終わってたが、原作最終巻まで読んだら「…名作と呼ばざるを得ない」ってなった。

「三段それぞれ別の広告だよバーカ!」とかいってた人もいたが、上二段は隙間なく繋がってるのにそりゃねーだろと思って静観してた。そしたらまさかのコの字! こんなのありか?

どこにも居場所がない寂しさはよくわかる。この子みたいな性格では矛盾と理不尽だらけのこの社会で、たった一人で働いていくことも苦しかろう。刑務所を求める気持ち、わからなくはない。

dailyshincho.jp/article/2020/0

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