曲が普通にめっちゃかっこいいんだよなあ…。ジョンコルトレーン感すらある。
https://www.youtube.com/watch?v=89sz9W5MAKU&feature=youtu.be
ロックかフュージョンをやるのかな? と思ったらまさかのトリオジャズ! 最高過ぎたのでCDを注文したけど、この人ら全然注目されてないっぽいから消えないでほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=89sz9W5MAKU&feature=youtu.be
和太鼓でドラムセット作ったら面白いんじゃね? と思ったらもうやってる人がいた。
https://www.youtube.com/watch?v=8RsDOxp-OFk
彼らはもちろんもろもろの価値観や思想を「誤りだ」とは言わない。「それはそれで大切なものだから大事にしなさい」とまでいう。そして加えて、「でもそれは絶対的なものではないし、みんなが幸せになるためにもっと高次元の考え方がある」という。
思考的にはともかく、実存的には人間はそういう価値観の二重基準を持ちながら生きることはできない。「絶対的なものではない」ともし納得できるのだとしたら、その時点でそれまで持っていた価値観は死んでいる。そして「高次」の価値観へと移行する。
ふわふわ系相対主義者たちがその次に植え込もうとするのが、人はそれぞれ自由に生きようとしているのだから~式のルソー式リベラリズムであるが、それとて「みんな幸せに生きよう」という一つの道徳、正しさ、信仰にすぎない。
ただ、本人があるものを求めることで得られると思っている結果が、実際には得られないことがある。この人と結婚すれば幸せになれると思って、人は不幸な結婚をする。
結果論ではあっても、価値を感じるものを求めた結果本来求めた価値が得られないのは、初めの認識が誤っていたからだ。A+B=Cになると思っていたところ、じつはA+B=Zだった。
世の中にはこういうパターンがとても多い。「無益な争い」というのはここに属する。相手を全滅させるまで戦ったところ、私まで不幸になるようなパターンだ。
これは、要するに最初の認識が間違っている。
生命に資するものに正価値を観念し、害するものに負価値を観念する。この基準は一生命個体にとっては絶対的なものであるので、第三者視点による相対化は観念としては可能であるけども、生活上は不可能。
喉が渇いて死にそうな人に、場合によっては水は災害となって人を殺すこともある。そんなに必死に水を求めるな。と述べることに意味があるか。ない。
遺産相続をめぐって争うきょうだいに、金銭価値なんて相対的なもので、そんなに執着するものではない、と説いて解決することはない。
これは美的価値だろうと善的価値だろうと、基本構造は変わらない。どちらにしても価値を感じる昨日は、生き残り殖えようとする生命としての基本機能に基づくものであるが故。
価値は理性の対象ではないので、価値観の相違による諸問題は理性によって解決することはできない。
ただ、諸問題を解決しようと挑む者には理性に基づく世界と人間についての理解が前提として求められるだろう。
この話題を考えてみても、正当化したい感情が先にあって、そのあとに理屈がくっついてくる。場合によってはもはや理屈としての体裁すら取り繕う気がない。
https://www.tyoshiki.com/entry/2021/02/18/092233
「あなたの正しさは、絶対的なものではない」という「啓蒙」は、人々に何らかの気付きを与えることはない。