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この話題を考えてみても、正当化したい感情が先にあって、そのあとに理屈がくっついてくる。場合によってはもはや理屈としての体裁すら取り繕う気がない。

tyoshiki.com/entry/2021/02/18/

「あなたの正しさは、絶対的なものではない」という「啓蒙」は、人々に何らかの気付きを与えることはない。

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結局のところ、理屈や思想や哲学「そのもの」が人類社会の傷をいやすのではない。理性を持って感情に対応しようとすることは、暴力的ですらある。

価値は理性の対象ではないので、価値観の相違による諸問題は理性によって解決することはできない。

ただ、諸問題を解決しようと挑む者には理性に基づく世界と人間についての理解が前提として求められるだろう。

遺産相続をめぐって争うきょうだいに、金銭価値なんて相対的なもので、そんなに執着するものではない、と説いて解決することはない。

これは美的価値だろうと善的価値だろうと、基本構造は変わらない。どちらにしても価値を感じる昨日は、生き残り殖えようとする生命としての基本機能に基づくものであるが故。

私が学生だった頃、竹田先生は哲学思想の中核概念として「欲望」を探求する必要がある、と述べておられたが、なかなかの慧眼でいらっしゃると当時も思ったものだった。

欲望する機能がなぜ声明に備え付けられているかといえば、「生き残り、殖える」ためだ。そして欲望する対象に備わっているように観念されるもの、それこそが価値の本質だ。

生命に資するものに正価値を観念し、害するものに負価値を観念する。この基準は一生命個体にとっては絶対的なものであるので、第三者視点による相対化は観念としては可能であるけども、生活上は不可能。

喉が渇いて死にそうな人に、場合によっては水は災害となって人を殺すこともある。そんなに必死に水を求めるな。と述べることに意味があるか。ない。

ただ、本人があるものを求めることで得られると思っている結果が、実際には得られないことがある。この人と結婚すれば幸せになれると思って、人は不幸な結婚をする。

結果論ではあっても、価値を感じるものを求めた結果本来求めた価値が得られないのは、初めの認識が誤っていたからだ。A+B=Cになると思っていたところ、じつはA+B=Zだった。

世の中にはこういうパターンがとても多い。「無益な争い」というのはここに属する。相手を全滅させるまで戦ったところ、私まで不幸になるようなパターンだ。

これは、要するに最初の認識が間違っている。

だから、「正しく」欲望を追及し、求める「価値」を最大限に獲得するためにどうするか。そのために「正しく」認識する方法をひとは備えなくてはならない。それが一番難しい。

少なくとも「世の中には正しいか間違ってるか、決められないことのほうが多い」なんていうふわふわポエムによって、人間の本質的課題が解決されることは絶対にない。絶対に。

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