苫野のような、この世に絶対的な正しさってのはないけど、俺の哲学やれば豊かな人生送れるよ、なんてのは人をケムに巻いてオルタナメタ真実を人々に植え込むことで、何かしらの自己評価や自己表現をこの世に残したいと思っている俗物の思考法であって、そんなのは哲学でもなんでもない。宗教だ。
それら各々の正義が衝突した結果、全員が不幸になるのは、むしろ皆がものの考え方を誤っていたから、正しくなかったからなのであって、むしろこの社会を啓蒙するつもりであるならば、主張するべきはこの世に正しさも間違いもない、などという安直な相対主義ではなく、お前らみんな正しい認識をもて、そしてそれから各々の立場について考えろ、という正しさに到達するための教育である。
人が誤ったドグマに陥るのは(そもそもこういう言い方がすでに自分が正しさの側にいることを意味している)、絶対的正しさがあることを信じるからではない。そんなことは大抵の人間にとってどうでもいい。それが、己に価値をもたらすと信じるからそのドグマを奉じるのであり、そのドグマに反対するものは、自らの価値を毀損しようとするが故に敵なのだ。
つまり、世の中には、間違った立場と、正しい立場が存在する。「正しい」という日本語が多義的すぎるために、竹田先生は誤解を避けるべくそのような言い方はされていなかったが、人間が認識できるものには正誤が存在するのである。そうでなかったら、フェイクニュースでもなんでもありのルール無用の荒野が広がることになる
竹田先生が言っていたのは、人間の理性の範疇超える議論については、論じる意味がない。しかし人が生きるためにより良いものを選ぶための指針や思想は提示できる、と言うことだったと受け止めている。そしてその議論の土台に置かれるのは、あくまで正しさに基づく人間の認識だったはずだ。
私はこの苫野の師匠に当たるところの竹田先生に少しだけ教示を受けたが、先生はこんな薄っぺらくて軟弱で、人の生きる苦しみに全く立脚しないような、バラモンみたいな議論はされてなかったと思っている。
人と人が「対立」すること、そのものに耐えられないのだろうな。ナイーブにすぎると思う。どちらが正しくて、どちらが間違っているか、対立し、議論し、証明していくことで人類の文化も文明も発展してきた。その側面を考慮しないで、ドヤ顔で「正しさなんてない」とメタ認知の立場に立つことで何かをアウフヘーベンできると思ってる。そういうのは中二病って言うんだよ。
こういう相対主義が人に優しい思想のあり方だと思ってる一群がいるんだよな。絶対的永遠に正しい考え方や物事のあり方は存在しない。そんなことは分かった上で議論してるのに、これを言えば勝てると思ってる人達がいる。
公明党幹事長の石田はこの森と同じジャンルの人間なので、何かやらかしてくれることをむしろ期待している。衆院選直前とかがいいと思うゾ。